ひとりごとNO.48. 森友問題―見えすえた劇に不満が爆発する(2018-3-15 PM

 

安倍内閣は、改ざんという犯罪を、佐川氏の個人的判断で実行したにしようとしている。とんでもないことだと思う。国家権力の乱用としか思えない。官僚は今こそ立ち上がり、政府に向かって正義を貫いてもらいたい。本当のことを正々堂々語ってほしい。

 

佐川氏が自身で改ざんを指示し、フェイクトークする必要がどうしてあるのか? これは犯罪行為である。自ら犯罪行為を実行するには、それなりの動機がないといけない。安倍夫人の名前や鴻池氏の名前を消そうと、どうして犯罪を犯してまで、佐川氏がしなくてはいけないのか? 動機が見当たらない。

 

内閣府のほうから話があって、何とか国会(昨年春)を乗り越えるために改ざんを指示され、佐川氏はやむなく動いたというほうが自然である。今では内閣主導で「官僚は僕となり働く」、こういう構図が常識になっているからだ。官僚主導で犯罪を犯すわけがない。

 

もう一つ、その理由がある。佐川氏は犯罪行為までして内閣府に尽くして、昨年春の国会を何とか乗り越えた。うまく乗り越えたので、内閣府のほうではご褒美として国税庁長官にしてあげた。これは普通に考えられることだ。

 

さらに、森友問題がもう一度再燃してきたら、ご褒美の解消。国税庁長官の解任、そして犯罪者まで落としいれようとしている。国家権力の怖さを改めて痛感する。手段は問わない暴力団と何ら変わらない。

 

もう一つ、理財局の森友問題で担当していた職員の自殺がある。「常識が壊された」と言って亡くなったようだ。常識とは何か。それは、「公文書の決済後の改ざんはあってはならぬ」という不文律だと思う。上から言われたからといって、そこまでやったらもうおしまい。寅さんの「それを言っちゃおしまいよ」だ。常識の常識が覆され、犯罪にまで手を染めさせられた理財局職員は、頭がおかしくなって当然。精神的苦痛のため自殺したと思われる。もしこのとおりだとしたら、国家がこの職員を殺したことになる。これこそ非常に由々しきことだろう。

 

一官僚が犯罪まで犯して政府を守ったとしたら「僕」に徹してはいるが、一線を越えているときには声を上げるべきだろう。今からでも遅くないから、官僚は本当のことを語ってほしい。


ひとりごとNO.47. ベースアップ3%で月額1,500円上がるって正しいの?(2018-3-15

 

ベースアップ、つまりベアがかれこれ20年以上ぶりに、この時期の話題になっている。ベア3%以上だと補助金を出すと政府が言うから、何とか3%以上のベアを各社目指しているようだ。火曜日のニュースを聞いていたら、月額1,500円のベアで3%目標を達成したと言っていた。3%で1,500円ということは、1,500÷0.03=50,000円だ。月給5万円? 何かおかしくないだろうか? 

今日は久しぶりに短いブログでした。昨今気になるニュースが多くて、ペンディングのブログは19日(月)に載せることにします。訳は言いませんが、その後はしばらくお休みです。


ひとりごとNO.46. 官僚は決済文書など書き換えたりしない!(2018-3-13

 

森友問題が進展した。財務省が決済文書の書き換えを認めた。しかも、国会で討議中の昨年2月~3月ころに書き換えられたようである。そうすると、国会での討議をかわすために書き換えたとしか思えない。文書を見ると名前の出ている人がいる。

 

その頃テレビで、「金を積んできた籠池氏に、けしからんと言ってつき返した」とテレビで発言していた鴻池氏。文書中では、近畿財務局へ陳情に行った人物として名前が挙がっていた。これは怪しい。鴻池氏が「わしの名前はちゃんと消しとけ」と言った可能性がある。

 

もう一人、最大の討議になっていたのは安倍夫人である。籠池氏の学校を応援していた事実は周知のとおりだ。応援するのはいいけど、地位を利用して行政をゆがめてはいけない。文書の中には安倍夫人も出ていることは、財務省としては当然知っていたはずだ。国会の討議で安倍夫人が槍玉に上がり、それを最初に懸念したのは佐川元理財局長だったかもしれない。そして、財務大臣、内閣府、安倍首相へと伝えたことだろう。官僚が独断で文書を変えることなんてありえない。安倍首相自身か、内閣府のどなたかが、佐川氏に「それはまずいから消しといてくれ」と指示したに違いない。文書として言った事実はなくて当然だ。こういう微妙なときは、われわれでも文書でなく、口頭あるいは最悪電話でする。証拠が残らないからだ。証拠がないから、最後は罪の擦り合いになるかもしれない。今度も政権が崩れないように不時着させると思われるが、正直に「私が指示した」という人が出てきてほしいものだ。

 

なお、自殺された官僚だが、私が思うには決済文書の改ざんを命ぜられ、それを実行した当事者ではないかと思う。森友との交渉にも直接当たっていたようなので、内容とは違う決済文書を捏造させられ、その呵責感のために心身ともにおかしくなったと想像する。加計問題も同じように思う。行政がゆがめられたと元文部次官が言っていた。総理が内閣府を通じて圧力をかけ、官僚は不正だと気づいているのに止められない。そのむなしさが痛く分かる気がする。

 

官僚は自分自身で決済文書など書き換えたりしない。政治家が関与していることは誰が見ても否めない。


ひとりごとNO.45. 森友文書―当時書き換えは隠蔽体質ではないか(2018-3-12

 

週末の忌々しき報道のため、準備していたものを延期し、急遽これを書かせていただく。

 

国交省への文書では「特殊性」などの文言が入っていたが、財務省内の文書では削除されていた。
どちらも20152016年頃の文書である。2つの可能性を想像してみた。1)当初は同じだったものだが、昨今の森本問題が指摘されてから、財務省内のほうだけは書き直して捺印まで押しなおさせた。これは明らかな改ざんであり、犯罪に該当しよう。2)国交省への文書では問題ないので詳しく書いたが、財務省内はそれではまずい(会計検査院等から問題を指摘される)とどなたが指摘し、財務省内で書き直したものを後日(国交省宛の文書作成後)作成した。

 

日付を信じれば後者のほうが正しいと見るだろう。つまり、その当時2通りの文書を作っていた。その前提で、自民党のある議員は今回慌てて書き直した文書を作成したわけではない、つまり1)ではないので問題ないような発言をしていた。しかし、そうではないと思う。どうして財務省内と国交省宛で「当時」文書内容を変える必要があったのか、それは明らかに意図的である。しかも、財務省内のほうが大雑把な経緯説明であり、国交省宛のほうが詳細というのは不自然である。会計検査院からチェックを受けるのは財務省の文書のほうだから、あえて別の文書を財務省内で用意したと考えるほうが自然ではないだろうか。

 

いずれにせよ、1)なら犯罪問題、2)でも悪質なことだと思った。内部で詳細を隠してしまう体質、つまり臭いものにふたをする体質が伺われるからだ。すなわち、都合悪いものを組織ぐるみで隠す、隠蔽体質そのものではないか。


ひとりごとNO.44. 米国でデータサイエンティストは一番人気の職種(2018-3-6

 

米国の「Glassdoor」という人材派遣サイトで、データサイエンティストが一番人気の職種にあがっていた。日本でもデータサイエンティストは人気が出ていて、特に理工学部へ入学を希望する生徒には、「データサイエンティストになれますか?」と聞く人もいるらしい。

 

念のため「Glassdoor」のジョブランキングのベストテンを見ると、1: Data scientist, 2: DevOps(開発運用) engineer, 3: Marketing manager, 4: Occupational therapist, 5: HR(人事) manager,
6: Electrical engineer, 7: Strategy manager, 8: Mobile developer, 9: Product manager,
10: Manufacturing engineer
となっていた。ちょっとエンジニア系に偏っていると感じた。なお、Software engineer(いわゆるSE)は21位、Data analyst38位に入っていた。人気が高いと思われる医療系は4位の作業療法士だけであり、これは少し信じがたいと思った。

 

そこで定評ある「Forbes」をみると、「U.S.News&World Report Best Jobs of 2018」にリンクされていた。「U.S.News&World Report」は、大学ランキングなどでも定評ある雑誌である。「Time」や「Newsweek」と並んで、よく定期購読されている雑誌でもある。私もアメリカに住んでいるとき定期購読していた。それをみると、1: Software developer, 2: Dentist, 3: Physician assistant, 4: Nurse practitioner, 5: Orthodontist, 6: Statistician, 7: Pediatrician, 8: Obstetrian/Gynecologist; Oral/Maxillofacial surgeon; Physicianだった。予想通り医師や看護師が多く入っているが、第6位に統計家が入っているのにはびっくりした。さらに、第1位はデータサイエンティスト如きと思われる。このように見てくると、人気ある職種は医療系とデータサイエンティストと言っても過言ではないだろう。ところで、統計家とデータサイエンティストの違いはいまいち明確になっていないが、データサイエンティストのほうは少しコンピュータサイエンス寄りではないかと思う。

 

ところで職種というのは「Job」の訳である。日本ではあまり職種は問わないように思う。業種(金融業とか製造業とか)、会社名、あるいは所属部署(人事とか営業とか)は聞くかもしれないが、あなたの職種というのはなじみがない。職種がなじむのは医療職くらいだろう。「あなたの職は何ですか?」、あるいは「何をされていますか?」と聞かれて、医療職なら答えやすいだろうが、サラリーマンはなかなか答えにくいだろう。同じことをずっとやっている人は多くないからだ。同じことをずっとやる人はスペシャリストなどと呼ばれ、会社の中枢へ上り詰めることが少ない。でもこれは日本独特であり、欧米では統計職をずっと続け、最後は副社長のポストまである。業種によっては社長もありうる。人事労務管理でもその畑で登りつめる人が多い。日本はあまり一つのことに執着せず、多方面を経験するゼネラリストになるのが目標になっているような気がする。

 

高度プロフェッショナル制度が盛り上がっているが、職種を明確に言える人はほんの一握りしかいないように思う。私自身はどう答えるだろうかと考えた。大学教官は職ではない。業種になるだろう。それではなんだろうか。統計家だ。でも自己紹介するとき、「私は富山大学医学部の折笠です」とは言うだろうが、「私は統計家です」と言う人はいないだろう。仮に統計家などと言っても、それ何ですかと言われそうな気がする。


ひとりごとNO.43. オリンピック級の選手はどうして留学するのか(2018-2-19


いまオリンピックが韓国で行われているが、羽生選手に続いて小平選手が金メダルを取得した。大変喜ばしいことだ。羽生選手のコーチは外国人のようだった。また、小平選手はスピードスケートの本場であるオランダで修行したそうだ。フィギュアスケートだとカナダで修行が多そうだ。つまり、一流選手はほとんどが海外留学しているように思う。そういえば、プロサッカーの監督も外国人が非常に多い。野球でこそ日本人監督だが、一流を目指す人はメジャーに出て行く。日本はスポーツ後進国なのだろうか。スポーツだけでなく、私の専門のバイオ統計学でもアメリカがメッカである。アメリカで教育を受けたほうがよさそうだ。もちろん、私のようにアメリカで教育を受けても一流にならない人は数多くいる。
でも、アメリカで教育を受けなかった人で一流になった人はほとんどいないだろう。iPS研究でノーベル賞を受賞した山中博士にしても、研究生活の基礎(トレーニング)はアメリカで行ったと聞いている。


ではどうして、日本でのトレーニングで一流になれないのだろうか。それはトレーニングプログラムが貧弱なのだろうと思う。私の専門領域でも、アメリカ大学の学習過程は日本のどこの大学にも及ばない。教える先生も素晴らしいし、カリキュラムも優れている。もっと、トレーニングあるいは教育を充実させないと、みな一流を狙う人は海外留学することだろう。元一流だった選手はよくTVのコメンテータとして登場するが、そういう人が選手のトレーニングに特化していかないものだろうか。そういう元一流選手に、もっとコーチなどで活躍してもらいたい。中には選手としてはすごいが、コーチとしてはいまいちという人もいるだろう。研究領域でもそれはある。しかし、全部が全部いまいちということはない。中には、一流選手であり、一流コーチになる人がいるはずだ。トレーニングのノウハウを持っているのは、海外留学を経て一流になった元選手のはずだ。そのノウハウを普及伝達しなかったら、ずっと海外留学を続けていくしかない。 


日本人はノウハウを考え出すのは弱くても、それを普及するのは上手だったと思う。品質管理の手法もアメリカから導入されたが、今では日本の専売特許になっている。今こそ、いろんな領域で「教育」へさらなる力を注ぐべきではなかろうか。


ひとりごとNO.42. ICH E9(R1)ガイドライン‐3つの用語を考える(2018-2-15

 

製薬業界向けの統計ガイドラインとして、ICH E9Statistical Principles for Clinical Trials―臨床試験のための統計的原則)ガイドラインは1998年に完成した(ステップ5―稼働中)。その補遺であるガイドライン、ICH E9(R1)ガイドライン(Addendum to Statistical Principles for Clinical Trials: Estimands and Sensitivity Analysis in Clinical Trials)は現在ステップ3、パブコメ中である。

まず、”(R1)”とは何だろうか。どこにも見当たらない。私の想像するに、”Addendum”、つまり「補遺」がヒントだと思う。”Addendum” 「補遺」は、文書等の追加・更新(”Addition or Update”)と定義され
る。 つまり、”Revision”「改訂」の”R”だろうと思った。つまり、”R1”というのは「改訂1版」ではなかろうか。

第一は、”Estimand”という用語である。10万語を配するジーニアス英和辞典でも載っていない。さすがに、1,000万語を配するWeblioには載っていた。訳語として、「推定値」と書かれている。
それじゃ、”Estimate”と同じじゃないか。でも、ちょっと違う。もうちょっと広い概念のように思う。著名な統計学者であるMosteller博士とTukey博士が、この用語を使用している(Frederick Mosteller and John W. Tukey (1968): Data analysis-including statistics. In: Handbook of Social Psychology: Research Methods, Page 106)。そこでは、”Something to be estimated”と説明している (We speak of the estimators target as an estimand [as something to be estimated] rather than just as a parameter.)。推定量の標的と書かれているので、推定値ではなく、何を推定しようとしているか、つまり「推定目標」ではなかろうか。ガイドライン中には、”What is to be estimated”(推定されるもの)と定義している。数理統計学のある本には、”Estimand”という用語が使われているとも聞いた。特別新しい造語ではなさそうだ。

続きだが、”-and”という接尾辞はどのような意味だろうか。”Compil-and”という単語がある。”and”とは接続詞が定番だが、接尾辞、つまり”-and”としての使い方がある。接尾辞の意味は、”-ing”(動詞の進行形)らしい。したがって、”Compil-and”は”Compiling”(あるいは”Computing”)であり、コンパイラー(コンピュータ言語)のことかと思う。同様に、”Estimand”は”Estimating”であり、推定しようとしているものなのだろう。”-and”は”-ed”、”-ee”、”-end”の意味もあり、”Estimat-ed”、 ”Estimat-ee”、
Estimat-end“、”Estimat-and”は同義になる。このことから、 本来は ”Estim-and”ではなく、
Estimat-and”が正当なのだろうが、何らかの理由で省略され、”Estima(ta)nd”となったのかもしれない。

 

第二は、”Sensitivity analysis”という用語である。疫学の検診・診断用語としてのSensitivityは感度あるいは鋭敏度と訳され、病者を検査陽性と正しく診断できる確率のことである。しかし、統計学で言っている”Sensitivity”はそうした疫学の専門用語ではなく、いわゆる通常用語の意味だと思う。「感じやすさ」あるいは影響度という意味合いなのだろう。したがって、違反例や外れ値などが結論にどう影響するかを分析することが”Sensitivity analysis”、すなわち「感度分析」だと思う。

 

第三は、”interecurrent event”という用語である。和訳では「中間事象」と訳されている。これまたジーニアス英和辞典に載っていない。Weblioでは、「介入性の」や「併発する」などと書かれている。語源で考えてみよう。まず、”inter-“とは”inter-national”から想像されるように、「間」という意味がある。
また、”inter-group”(”intra-group”に比し)から想像されるのは、「外」という意味である。
では、”current”は何かというと「現在」である。「現在の間」、「現在の外」、では訳が分からない。しかし、”currency”から想像されるように、”current”には「流れる」という意味もある。それだと「流れの間」となり、「流れ」というのは臨床試験の試験期間と捉えることができる。試験期間中に起こる事象のことを言うのだろう。「中間事象」という訳は、的を得ているように思った。少なくとも、「介入事象」や「併発事象」よりは良いだろう。「流れ」を想定内のことと思えば、流れの外だから「想定外の事象」と言ってもよいかもしれない。

 

今回は大変長くなってしまった。2月9日の大分統計談話会でのディスカッションで思い立ったことをまとめてみた。


ひとりごとNO.41. 受動喫煙に関する法律改正案は妥当だろうか (2018-1-31)


2年後の東京オリンピックを目指して、受動喫煙を規制するような法律改正が議論になっている。乗り物はほぼ100%禁煙になったが、飲食店ではまだまだのようである。私がよく行くような小さな居酒屋では、ほぼ100%喫煙可能だろう。私自身吸わないので、居酒屋も禁煙になってほしいと願う。煙が来ると早めに退散することもある。

今回妥協案として、小規模の飲食店(具体的には150m2未満の店)では、禁煙の対象外とする案が挙がっている。本末転倒ではないだろうか。小規模な店ほど、喫煙することにより煙が蔓延する。煙たさを痛感する。健康増進の観点からは、小規模店ほど禁煙化するのが筋ではないだろうか。

愛煙家がそういった小規模店によく通っているからだ、と言うかもしれない。そうかもしれないが、それは店の都合だと言えよう。うちの常連さんはほとんど愛煙家だから、禁煙化すれば来なくなるという理屈だ。店がつぶれてしまう。健康増進を考えるだけではうまく行かず、小さな店の経営も考えないといけないのだろう。

私自身は全面禁煙化を望むところだが、お店の自由という議論もある。煙がいやなら行かなければよい。でも、そういった小さな居酒屋は、大きなチェーン店などと違って、味も良し、雰囲気も良しなのだ。だから、多少タバコを吸っている人がいても、私は通う。個人の自由をそこまで束縛しなくてもいいという議論もあるだろう。禁煙家は来店しなくなり、愛煙家も減ってくれば、当然そういった居酒屋も禁煙にするだろう。

アメリカなどでは、飲食店で喫煙している人はほとんどいないように思う。レッドネッカーが行くような店はまだ例外かもしれないが、バーなどでもタバコを吸っている人はあまり見かけない。そういった外国人が日本へ来て、私が行くようなコの字型の小さな居酒屋など行かないかもしれない。小さなスナックへも行かないかもしれない。それなら結構だけど、もし行った外国人は敬遠し、悪い印象を持つだろう。

皆が行く公共性の高い場所でタバコ禁止は当然だろうが、小さな居酒屋はそれほど公共性が高い場所とも思えない。そこも禁煙にしてもらいたいと個人的には思うが、法律で縛るのはどうなのかなと客観的には感じる。


ひとりごとNO.40. 所得税改革のからくり(2017-12-12

 所得税改革

給与所得税控除額220万円の上限を190万円に引き下げ、高額所得者有利の仕組みを変えると言っている。それはそのとおりだが、高額所得者とされているのは、年収800万円以上の人たちである。確かに平均年収は420万円ほどなのに、年収800万円というのは高い。年収が2倍になったからといって、生活に必要な経費が2倍になるとは限らない。年収1,000万円以上の人はおよそ5%と言われている。現時点では850万円がカット点になりそうだが、850万円以上の人は10%くらいだろうか。控除額が30万円減るということは、所得税20%だとすると、手取りで24万円くらい減ることになる。月2万円の減だから、年収1000万円前後の中上流層にとってはかなりきつい。

 

私が問題視したいのは、もう一方の基礎控除の引き上げについてである。載せたグラフの下部分である。年収2400万円まで、基礎控除を38万円から48万円へ引き上げることになっている。年収2400万円を超えると段階的に引き下げる。なぜ、2400万円まで引き上げてあげる必要があるのだろうか。それは国会議員の給与水準ぎりぎりであることに疑念を隠せない。国会議員が作っている法案だから、自分を守っている法案じゃないかと思う。

 

年収800万円以下の人にとっては喜ばしい改革だろう。しかし、年収800万円〜1000万円辺りの人は一番厳しい結果に見える。逆に、20002400万円辺りが一番喜ばしい結果に見える。つまり、中上流層をいじめた格好である。本来なら、2000万円以上の人では基礎控除は不要ではなかろうか。2000万円以上の高額所得者は1%弱と言われている。上位1%の方々には、基礎控除は遠慮していただいてもよいのではなかろうか。そうすれば国会議員の基礎控除はゼロになり、身を切る改革をしていると実感させてくれるのだが。


 ひとりごとNO.39. エレクトリックvsエレクトロニック(2017-11-16

 

カタカナで書くと大変よく似ているが、英語の発音はかなり違って聞こえる。エレクトリックでは「レ」に強いアクセントがあるが、エレクトロニックでは「レ」に弱いアクセントがあるものの、「ロ」に強いアクセントがある。強いアクセントは「ロ」のほうなので、聞いた感じはかなり違う。日本語の訳語は、エレクトリックは「電気」であり、エレクトロニックは「電子」である。これまた大変紛らわしい。その違いはよく分からない。発電、送配電は電気であり、半導体やパソコンなどは電子らしい。言ってみれば、過去は電気が盛んであり、現代は電子の時代だろうか。大学にも電気工学科というのが過去には多かったが、そのうち電子工学科が増えてきたように思う。NECという会社も、過去はNippon Electric Companyと英訳されていたようである。それじゃ今Electricは古いかというと、三菱電機は今でもMitsubishi electricと英訳されている。

 

なぜそんなこと考えたかというと、私の周辺では、EMRElectronic Medical Records)やEHRElectronic Health Records)がよく言われるようになった。EMRのほうは電子カルテと呼ばれるが、「電子」がちゃんと使われている。電気は配線をイメージするが、電子は線がないイメージだろうか。紙のカルテからパソコンに線でつながっているイメージは電気なのだろうが、そんなことはありえない。だから電子なのだろう。この言葉を英語で話そうとするときに、Electricと間違えそうになった。そこで気になったわけである。

 

昔、エレキというのが流行った。これはエレクトリック・ギターであり、電気ギターである。電子ギターではない。アンプまで線でつながっているからだろう。これが無線になると、エレクトロニック・ギターになるのだろうか。そんなギター見たことないけど。でも、IOTInternet Of Things)の時代になると、ギターとアンプがインターネットでつながることだろう。そしたら電子ギターと言い換えるのかもしれない。


 ひとりごとNO.38. 国会審議は野党がすべきものではないか(2017-11-13

 

政治不信のことを前回書いたが、ひとつ言い忘れていた。

 

安倍自民党が圧勝したためだろうか、国会での質問時間を自民党優先に変えようとしている。今までは、与党2:野党8(あるいは与党3:野党7)くらいだったようだ。今度はまったく逆転。与党7:野党3という案である。

 

自民党・公明党という与党は党内で揉んで、よくディスカッションし、国会へ与党案として提案する。その過程で、与党員は執行部に対していろいろ意見できるはずだ。事前に意見できないとすれば、それはそれで問題だ。それに比して、野党は国会審議まで質問する機会はない。

 

私に言わせれば、国会審議は野党だけ質問すべきだと思う。過去の国会審議を見ていても、与党からの質問は確認するためのものが多く、その質問によって法案が修正されたという事例はほとんどない。公明党も与党になっているが、公明党は「少し違うだろ」と質問することもあるが、基本的には与党なので、最終的には与党案に賛成するのはみえみえだ。

 

こんな形式だけの質疑はやめにして、国民はもっと国民目線の質疑を国会審議に期待しているはずだ。与党の質問時間を増やしてほしい、と言った自民党議員の理由にもびっくりだ。もっとテレビで質問している、つまり仕事している姿を見たいと、地元で言われたからだという。本末転倒だろう。テレビで質問する姿を見せないと、仕事していないと思われるような人柄こそが問題ではないか。もっと、別のところで仕事する姿を有権者に見せることはいくらでもできる。パーフォーマンスに走ることなく、地道に仕事をしてもらいものだ。その真摯さは、国民からも歓迎されるに違いない。


 ひとりごとNO.37. 政治不信になってしまう(2017-11-8

 

先だっては安倍首相が急に国会を解散させ、衆議院選挙が行われた。しかし、投票率は50%少しであり、半分近くは棄権したことになる。戦後第2位の低率だった。これは何を意味しているのだろうか。国民はなぜ解散するのかが理解できない。この解散って、必要だっただろうか。どう考えても、安倍首相など自民党が、いま解散して選挙をすると勝てそうだから解散したとしか思えない。そうすれば、また4年間安泰が約束されるから。しかも、選挙後に閣僚は変えない。何も変わらないなら解散する必要ないのでは、と言いたくなる。

 

解散って、そんな利用の仕方をしていいものだろうか。解散によって生じる選挙のためにほぼ1,000億円のお金―それは国民の税金―が使われる。必要のない解散によって、税金を無駄遣いしているとしか思えない。これだけのお金があるなら、保育園や奨学金などに、一時的ではあるが回してもらいたいと国民は思うことだろう。国民目線からは考えられないようなことや議論ばかり、これでは国民の政治不信は高まって当然だ。こんな国民不在の政治から脱却しようという団体に出てきてもらいたい。政策以前の問題、公正感を疑いたくなる事態が多すぎる。


 ひとりごとNO.36. 衆議院選挙―4つの公約で勝利(2017-9-27

 

衆議院選挙に勝つには、私は4つの公約が必要だと思っている。

1)    消費税を凍結

2)    原発ゼロを実行

3)    北朝鮮―圧力ではなく対話を

4)    所得税を減税


安倍首相はリーマンショック級のことが起きない限り消費税を10%に上げるという。ということは、現状なら2年後は10%に必ず上がる。国民は決して潤っているわけではない。自民党も民進党も10%に上げると言っているが、それを凍結するとはっきり言ってほしいものだ。

 

原発は縮小とかいうあいまいな言い方ではなく、即ゼロを実行する。そうはっきり言ってほしいものだ。いま稼動しているのも速やかに停止する。電力不足が懸念されるかもしれないが、止まっていた期間それほど不自由はなかった。また、新しい電力源が進んできている。眉唾ではなく、きっぱりいうことが必要ではないだろうか。

 

北朝鮮に対して、安倍首相はトランプ大統領と呼応し、対話ではなく圧力だと主張する。それが平和をもたらすとは決して思えない。いままさに、圧力をかけたため危険な状況が増してきた。小泉元首相は北朝鮮へ赴き、対話をし、拉致された方々を戻した。対話をしない限り、拉致被害者は戻ってきようがない。圧力は失敗だ、対話に転換すると言えば、大方の日本人は平和主義なので同調することだろう。

 

最後は減税だ。法人は株価の上昇や業績向上で内部留保もたくさんあるので、所得税減税を公約してもらいたい。これは消費者にとって朗報である。学費無償化も良いが、それよりは減税のほうがもっと良い。戻ってきたお金で、自ら何とかすればよいからだ。国民全体にもっと幸福感を与えるのが減税だと思う。

 

この4つを断行するような政党が出てこないかなと思う。これなら大方の国民がこれらを公約にすれば飛びつくのではないか。一院制とか憲法改正などを公約に上げても、国民はよくわからない。まだ早いんじゃないのと思うことだろう。何しろ身近なことから解決してほしい、というのが本音ではないだろうか。


 ひとりごとNO.35.豊田議員のような人はそんなに珍しくはない(2017-9-26

 

いわゆる「きれる」と言われる人はよく見かける。自分自身もきれる方かなと思う。さて、境界性人格障害という病名がある。起伏が激しく、感情が極めて不安定であり、強いイライラ感を抑えきれなくなる人を言うようだ。人口の2%に見られ、若い女性に多いと言われている。人はだれでも頭にきて、汚い言葉で罵ることはある。しかし、境界性人格障害では感情のブレーキが効かず、罵り方も尋常ではない。些細なことでも癇癪を起こしたりする。豊田議員、まさにこれではないかと感じた。50人に1人いるわけだから、決して珍しくはない。ふつうに世の中にはいるようだ。

 

この境界性人格障害、原因には脳の遺伝と環境があるようだ。遺伝はご承知のとおりだが、環境には幼児期の虐待や母親との人間関係が言われている。母親が子供の欠点ばかり指摘するとか、親の言うとおりに育った優等生に多いようだ。過保護に育てることも子供にとってはストレスになり、この病気を発症するようだ。この点も豊田議員のケースと合っているような気がする。この病気になると本人の自己肯定感が弱くなり、自信も持てなくなる。社会で困ることになりそうだ。

 

では、この病気に対処するにはどうすればよいか。ものの本にも書かれているように、心理・行動療法しかないのだろう。それにより、多くは短期間で改善するとも言われているので、そんなに心配する必要もなさそうだ。30歳以上になるとほぼ解消するなど、時間が解決してくれることも知られている。それよりも、本人に振り回される家族・同僚のほうが心配なのかもしれない。


 ひとりごとNO.34.北朝鮮に圧力で日米一致は非常に危険(2017-9-21

 

昨晩の国連総会で安倍首相は次のように発言した。北朝鮮にこれまで対話してきたが、それでも核開発を続ける。これではだめであり、今は対話ではなく圧力だと。

 

まず感じたのは、これまで対話をしてきたというが、小泉首相以来、だれが対話してきたと言えるか? 私に言わせれば、対話などまったくしてこなかった。つまり、その発言は嘘だと思う。

 

人間というのは面して、対話しないと分かり合えない。条件云々は関係なく、まずは直接会えばいいじゃないか。条件を呑まないと会わんなど言っているから、相手もそれじゃ会わないと言う。当然だと思う。対話というのは、無条件に会って会話すること。結果が決まっていたら、会ってもしょうがない。合意結果を得るために、会って対話・交渉する。安倍首相は無条件で会おうと言えばいいじゃないだろうか。日米が圧力で一致すると、戦争になる危険が高まる。大変危険なことを日米の宰相が言っていて、ひどく情けない。

 

北朝鮮は国連決議に従いなさいと一方的に押し付けるのは、いじめに他ならない。みんなで決めたことだから、あなたは言う事聴きなさいと言われて、あなたはいい気がするだろうか。だれだって、そんなこと聞くもんか、と逆に反発を強めるだろう。こんなやり方で円満解決されるわけがない。もっと和気藹々、対話をすれば、武装など不要な世の中になるのでは。それこそが国際平和につながる。圧力では国際平和は生まれない。中東でもアフリカでも、そのことは歴史が実証してきたはずである。

 

米国と北朝鮮のやり取りを聞いていると、それは子供の喧嘩のようでもある。お前が悪い、否あんたが悪い、と言いやる。挑発の連続である。どこかで一方が折れないと治まらない。あるいは、だれかが仲裁しないと治まらない。前者は無理だろうから、後者、つまり第三者が仲介すること。それを日本国にしてもらいたい。日本は平和主義であり、唯一の被爆国。核開発を止めること以前に、米国と北朝鮮がエスカレートしないよう仲裁してもらいたい。仲良くなれば、相手が信じられれば、核開発だって止めてくれる。そのためにも対話が必要。昨晩の首相の演説を聞くと、日本まで喧嘩を助長しているかに見えた。


 ひとりごとNO.33. 安倍首相は正直言わないと支持率は回復しないだろう(2017-8-3

 

安倍首相の1/20まで加計学園が獣医学部申請をしていないことを知らなかったと言いながら、年に7回もゴルフや会食をしていた。これは誰でも不思議と思い、そういう安倍首相は信じられないと思っていることだろう。潔く、1/20前に知っていたと言うべきではないだろうか。だからといって、気心は決して入れていないという発言をしてもらいたい。私情を入れていないと思っているのなら、あまりつじつまあわせの急迫発言をするよりも、正直発言をしてもらいたい。いやすべきだろう。それにより贈収賄と追求されるかもしれないけど、そんな私情優遇していないことが判明すれば、時間はかかるが不起訴になるはずである。それくらい打って出てくれることを、国民は安倍首相に期待しているのだ。そのくらいの度胸・度量があってほしい。安倍首相が支持率を回復するためには、こうした正直発言をするしかないと私は思っている。


 ひとりごとNO.32. 寄付とは自分にためにするものではない!(2017-7-28

 

寄付というのは、自分や自分の所属する組織にするというのは本末転倒のように感じる。それは寄付というより、徴収のように思われる。いわゆるカンパである。こんなビルを建てるから、1人いくら以上寄付してもらいたい。職員1人いくらと一律にするようなら、まさに徴収制度になる。社員旅行をするから、毎月給与から天引きするのと大して変わらない。自分のためにお金を払うのだから、本来それは寄付ではなく、組織の活動そのものではないかと思う。

 

本来の寄付というのは、自分ではない団体に対してするものではないだろうか。母校へ寄付をするとか、成長してほしい大学へ寄付をするとか、地方都市へ寄付をするとか、関係する学会へ寄付をするとか、であろう。寄付は見返りを求めるものではなく、その活動を無心に支援するものである。あまり何に使ってくださいと要望するようなものでもない。しかしながら、こうした活動を支援したいので、そういう点でご活用くださいというのは許されよう。寄付する側にしても、こういう活動を進めるために寄付してくださいというように、具体的な趣旨が示されたほうが納得して寄付できるだろう。

 

それでは、寄付を募るために努力するのは誰だろうか。それはもちろん経営者だろう。平の職員ではないと思う。大学であれば、学長や理事・評議員だろう。学会であれば、学会長や理事・評議員だろう。職員など組織の成員が寄付を集める行為は考えられない。職員は仕事にまい進すべきであり、それを使命としている部署以外は寄付集めをするものではないと思う。経営者が寄付を集める努力をすべきなのだが、寄付を求める対象は組織内の人たちではなく、外部の人たちになるのは言うまでもない。それが渉外という、経営者の仕事の骨頂であると思っている。


 ひとりごとNO.31. 決定権者である総理大臣が業者から供与を受けていていいの?(2017-7-25)

 

加計学園に認可が決まる頃に、その決定権者である総理大臣と加計学園とが年に何回も(7回とも言われている)ゴルフや会食をしていたらしい。しかも、加計学園から何回かは接待を受けていたと自ら発言した。

 

どの職場でも大きな入札が行われるとき、業者から接待を受けるなど許されるはずがない。業者側にしてみれば、職場の決定権者に接触したがるのはよくわかる。わが社に落札してもらいたいからだ。民間会社・病院・公共機関でも、そのような業者との密接な関係を職場倫理規定で禁止している。たとえ、業者が友人であっても、割り勘であっても、利益供与が想定される場合は禁止だ。

 

今回の場合、決定権者は総理大臣であり、民間(加計学園)から決定権者へ供与がなされていたことになる。決定権者は自分では決めていないと言っても、公式的には認可を決めるのは総理大臣である。総理大臣が業者から接待を受けたなど、言語道断というのが国民感情ではないだろうか。一般市民がそのようなことになれば、贈収賄ということで罰を受けることだろう。総理大臣なら許されるのか。このように国民常識からずれているから困る。都議会選挙の開票直前にもフレンチレストランでディナー、ちょっと呆れるというのが国民感情ではないだろうか。議員さんなど政治家は、もっと公僕に近い人たちであってほしい。仕事が終わった後から議会を開けば、仕事で給与があるから無給でよい。私なら晩飯くらい出してもらえれば、ぜひ議員をやってみたいと思う。


 ひとりごとNO.30.加計学園ありきは確実だろう(2017-7-11

加計と聞くと、広島の加計町由来かと思ったが苗字のようだ。

 

それはともかく、岩盤規制を取っ払うのは悪いとはだれも言っていない。加計学園に決まったプロセスに疑念がもたれているのだ。元文部次官もそこを訴えているが、自民党はどうも的外れなことを言っているとしか思えない。

 

私が思うに、加計学園ありきは確実だろう。なぜか。新設が認められていないのにすでに建設が始まっていること、これが第一だ。来年4月開講なら建設は必死だろうが、認可がほぼ決まっていないのに、建設する企業があるだろうか。決まっているから建設を始めているに違いない。そもそも、8月の設置審で決まったら翌年4月開講せよ、という制度自体が至極おかしい。それまでにほぼ決定しないと無理なことだからである。

 

第二は、加計学園へ決めるプロセスを合理的にするため、条件を追加したことだ。落札させるために条件を追加するのは、世の中で常識的なこと(私自身は非常識と思っているが)。いくらでも合理的に条件を追加することは可能である。今回もそれを行った。合理的に見えるかもしれないが、関係者からしたら「やられたな」という感想だろう。しかも、「みえみえ」の条件追加なのがお粗末だ。

 

大学教員の募集でも、公募を行わないのが日本では多い。アメリカでは考えられない。不透明に人事も行われているのが日本的なのだ。これと同じように、何でも裏取引をやっているような不公平さが見えると、若者も消沈することだろう。日本では、結論ありきで、それを合理付けるというのがあまりにも多いようでとても気になる。


 ひとりごとNO.29.「もっと獣医学部を認可しましょう」とはどういうこと?(2017-6-27

 

週末に安倍首相は神戸で次のようなことを言った。「別に加計学園に固執していたわけじゃない。加計学園以外にも獣医学部を認めたらいいじゃないか。」加計学園へ肩入れの疑いをかけられ、そうじゃないことをこのような形で解決しようとするとは、子供の喧嘩とそう変わらない。開き直りとしか聞こえない。別の獣医学部も認可すれば問題はなかろう、と言わんばかり。獣医学部はそんなにいらないと言っているのに、また作ればいいというのは論外だ。

 

問題の本質は、加計学園に決まったのは内閣のご意向があったのではないか、という嫌疑である。その嫌疑を直接的には明らかにせず、他にも獣医学部を認可すればいいじゃないかというのは論外だと思う。逃げているとしか思えないのは私だけだろうか。

 

たとえば、入学試験で知り合いの生徒を優遇して合格にさせておきながら、その嫌疑がかけられたら、「そんなことを疑うならあなたの生徒も合格にしてあげるよ」という理屈と同じだ。それは魔逆の対応であって、そういう嫌疑がかけられたら、ふつうの人なら「知り合いの生徒の合格を取り消します」と宣言するはずだろう。Statesman−公正な政治家―なら、それが当然の対応だと思いたい。


 ひとりごとNO.28.「出会い系バーで貧困調査」は何が悪い?(2017-6-2)

 

問題に対して対策を立てるさいに、現場を見ずして語ることはできない。私は大学生のときに、指導教授から、「まず現場を見なさい」と言われた。実際に仕事をし始めて、それが正しいことを実感した。現場を見ずして仕事している人は、実態を体感していないため、本質を捉えていないかもしれない。

 

高木兼寛と森鴎外の論争のとき、高木兼寛は理論武装の森鴎外に対して、現場を重視した。高木が創立した慈恵医大に掲げられた「病気を診ずして病人を診よ」は有名だ。いわば、現場を見なさいと言っているのだと思う。

 

今回、文科省トップが「出会い系バーで貧困調査」をしたことが問題視されている。この問題の対策を文科省が立てるのであれば、その現場を見ることは基本中の基本であろう。トップは忙しいにも関わらず、そのような行動をとることはお手本を見せているように思う。そんな立場の人が行くところじゃないと批判すること自体、そういった職業の人を差別していることに他ならない。あなたの立場なら「たち食いそば屋やガード下の赤提灯へ行くべきでない」、と言う人も同じだ。職業差別は大嫌いであり、人間はすべて同じというのが私の信条である。

 

週刊誌を読むと、前次官は30回以上も出会い系バーへ通ったと書いてあった。もしこの記事が正しいとすると、ここまでするのはどうかと思う。問題対策のため、そこまでのめらなくてもよいように感じた。熱血すぎたのか、それとも単なる個人的趣味なのか。もし記事が本当なら、後者のほうが疑われてもしようがないと思う。


 ひとりごとNO.27 日本の端はどこ? (2017-4-26掲載)

日本の東西南北の端はどこだろうか。ウィキペディアによると、北は択捉島、南は沖の鳥島、東は南鳥島、そして西は与那国島と書かれている。小学生5年生の教科書にもそのように書かれている。私たちの年代なら、北端は宗谷岬、東端が納沙布岬と覚えたように思う。どうなっているのだろうか。しかも、択捉島はロシアの領土ではなかろうか。

 

ウィキペディアにどう書かれているかとみると、日本が領有権を主張している範囲の最北端として、日本の最北端は択捉島と書かれている。1855年、江戸時代にロシアと条約を結び、それ以来択捉島は日本の固有の領土らしい。しかし、第二次世界大戦で全面降伏したとき、ロシアが択捉島を占領してしまった。しかし条約など正式な占有ではないため、日本は今でも択捉島は日本の国土だと主張している。それを教科書にも反映しているのだろう。でも、私たちの時代の教科書では、最北端は択捉島ではなかったと思う。では、いつから教科書で択捉島と書かれるようになったのだろうか。

 

最北端とされる択捉島へ、ふつうは行くことはできない。日本人が行ける最北端は宗谷岬だろう。最南端の沖ノ鳥島へも、人間は行くことができない。行けるのは沖縄・八重山諸島の波照間島だろう。最東端の南鳥島へも人間は行けず、行けるは根室の先の納沙布岬だろう。最西端の与那国島だけは人間が行くことができる。私たちが行ける日本の端、北・南・東については制覇したが、最西端だけまだ行ったことがない。実は石垣島から西表島など八重島諸島を回ったとき、与那国島へもちょっと足を延ばしておけばよかった。でも、いつかまた最西端へ行ってみたい。


  ひとりごとNO.26 富山大学の受験生は北陸新幹線で非常に変わった(2017-4-5)

 

富山大学では関東の志願者が増えたというニュースが流れた。今年の入試も終わろうとしている312日のことだ。関東からの志願者の数字を見ると、2015年度は7152016年度は8472017年度(今年)は978だった。確かに、毎年およそ150人ずつ増えているので本当らしい。全体に占める割合で見ると、2015年度が9.1%2017年度が11.9%のようだ。2.8%だけ関東からの志願者が増えたわけだが、これは偶然なものではないと言えるだろうか? 統計学的に考えると、偶然で起こる可能性は0.01%未満であることが分かる。わずか2.8%の増加に過ぎないが、何の原因もなく、こんなに増加することはありえないという結果だ。ちなみに、志願者数はおよそ8千人であり、毎年そんなに変動はない。

 

偶然とは考えにくい関東からの志願者増だが、その理由はなんだろうか。ここからは想像の範囲になるが、北陸新幹線効果ではないだろうか。あるいは、志願者説明会を東京で開催したお陰、つまり広報効果かもしれない。上に示した数字だけでは真の理由は分からないが、どちらも影響していることだろう。

 

県外からも多くの志願者がいることは結構なことだが、その一方で弊害もある。医学部では医師を6年かけて養成するわけだが、医師になったら研修先を自由に選べる。関東出身の学生は、どうしても研修は関東でしたいと希望するようだ。せっかく富山大学を卒業しても、この地で仕事をしてもらえない。これは地域医療にも影響する大問題だ。そこで、地域枠という入試制度ができた。富山大学医学部では毎年15名以内としている。富山県内の高校を卒業した者で、ある程度(大学入試試験80%以上)の能力があることなどが前提である。そして、卒後の一定期間は富山県内で研修することも確約してもらう。さらに、富山大学では特別枠(10名まで)という制度もある。こちらは富山県出身者に限らないが、卒後は富山県内で研修することを確約してもらう。特別枠では、富山県から修学費(毎月10万円)が貸与される。厚労省が平成19年に「緊急医師確保政策」を設け、それが財源となっているようだ。地域枠は富山県内限定なので数倍の倍率だが、特別枠は全国から志願できてお金もいただけるため、15倍などと毎年非常に高い倍率になっている。


 ひとりごとNO.25富山市のコンパクトシティは本物か(2017-3-31)

 

富山市はコンパクトシティとして宣伝しているようだ。宣伝の効果あって、全国に浸透しているように感じている。しかし、本当にコンパクトシティに住んでいる市民はハッピーだろうか。私自身、コンパクトシティのど真ん中に住んでいるが、コンパクトシティの中で何事も済ませるという恩恵はあずかっていないように感じている。

 

確かにコンパクトシティ内をLRTが走っているし、コミュニティバスも走っているので、自家用車がなくても市内は動きやすい。それは車のない人にとっては恩恵かもしれない。しかし、車がなくても動きやすいなどというと、東京都内の町はすべてコンパクトシティになってしまう。電車やバスでほぼ不自由なく、どこでも行ける。富山市が特別だということは全然ない。

 

コンパクトシティでは車がなくても、生活のすべてが実現できるという。移動についてはさきほど述べた。買い物はどうだろうか。スーパーは少し遠くてもバスで行けるには違いないが、毎日の話、バスを使うのもどうだろうか。食事、外食は? 東京都内だと、歩いて外食もほぼ可能だろうし、交通機関を使ったらどこでも行ける。富山市はどうだろうか。歩いて行ける外食店はコンパクトシティ内にあるものの、魅力のない、つまり行きたいと思わない店が多すぎる。ラーメン屋(つくしなど)、うどん屋(丸亀製麺・糸庄など)、回転寿司(すし玉・すし食いねえなど)、コーヒーショップ(コメダ珈琲など)、バーガーショップ(モスなど)、賑わっている名店はどれも郊外にある。歩いては絶対無理だ。バスでもなかなか行きにくい場所が多い。どうしても車が必要となる。これでは、コンパクトシティ内で何でも適う、恩恵をあずかるとは言えないのではないか。

 

私自身、かれこれ10年ほどコンパクトシティ内に住んでいて、歩いてデパートを行けたり、図書館へ行けたりと便利に感じることもある。しかし、CPに優れた名店はほとんどコンパクトシティ内にはない。どうして、そうした名店は入ってきてくれないのだろうか。一つは、そういった名店は損益をよく考え、場所代が高いから入ってこないのかもしれない。場所代は高くても大賑わいなら何とかなるだろうが、大賑わいにならないと踏んでいるのだろう。しかし、コンパクトシティ内にある名店「寿司栄」や「丸一」はいつも混んでいる。だから、そんなこともないはずだ。上に挙げたような名店に、ぜひ内部へ進出してきてもらいたい。名店なら、絶対多くの住民が足しげく通うはずだ。


 ひとりごとNO.24a「Performed」と「Conducted」の違い(2017-3-28)

  

No.242017-3-27)の続編である。音楽演奏の解説で、「…. was performed by Chicago orchestra and George Solti conducted」と言っていた。音楽演奏を行ったのはシカゴ饗であり、それを指揮したのがショルティということだ。つまり、PlayerPerformし、ConductorConductする。研究ではどうだろうか。Playerは研究者であり、Conductorは研究監督者だろう。企業スポンサー研究なら企業がConductorになり、文科省や財団による研究なら文科省や財団がConductorになるのではないか。実際の研究者が主語になれば、それは「Performed by」としたほうがよいように思う。

 

同様の類語として、「Supported(支援された)」、「Funded(資金提供された)」、Sponsored(主宰された)」がある。「Supported by」の支援元は文科省や財団等になり、研究内容については口出しをしないのが原則である。「Funded by」の提供元も同様である。一方、「Sponsored by」の主宰者は研究を主導する者なので、研究内容について口出しをするし、研究全体について責任を有する。研究者が主語になるときには、これらの三つは対象外ということだろう。治験などは企業主導(主宰)で行われるが、研究者主導の研究は「Supported  by」または「Funded by」となる。

 

繰り返しになるが、「Perform」は完遂するというニュアンス、「Conduct」は導くというニュアンスがあるようだ。研究者の場合はどちらかというと「Perform」のほうが近く、資金提供者や組織は「Conduct」が近いと思われる。電車の運転者は「Perform」、車掌は「Conduct」というのも分かる。研究における研究者は「Perform」、主宰者などは「Conduct」となるのだろうが、細かいニュアンスの違いはネイティブでないと分からない。


 ひとりごとNo.24「実施した」は”conducted”か”performed”か?(2017-3-24)

 We performed .」か「We conducted…」、どちらにしようか迷ったことのある人はいるだろう。あるいは、computedcalculatedもどちらがいいか困った人はいるだろう。英語には似た言葉がいくつもある。

 

Conductorは車掌のことだと、新幹線の英語アナウンスで知った。音楽の世界では、Conductorは指揮者のことを言う。語源で考えてみよう。「Con」は「いっしょ」、「duct」は「導く」。したがって、「Conduct」はいっしょに行うといった意味合いがあるようだ。行うとは言っても、目標へいっしょに向かうという意味合いのようだ。

 

Perform」はどうだろうか。Performanceというと、音楽の演奏あるいは演劇の上演を意味する。語源で考えると、「Per」は「完璧に」という意味であり、「form」は「為す」という意味である。したがって、「Perform」はやり遂げるという意味合いがあるようだ。

 

Conduct」は「決められたとおりに」とか、「号令にしたがって」動くイメージがあり、「Perform」は「工夫して」とか、「理想を向かい考えながら」行うイメージがあるように思う。私はネイティブではないので、ニュアンスの違いはぜひ聞いてほしい。

 

Perfect」という語も「Perform」とほぼ同じ意味になるが、「Perfect」はあまり動詞では使われないようだ。「完璧な」という修飾語として使われることが多い。語源的には、「Per」は同じく「完璧に」という意味であり、「fect」は「為す」という意味のようだ。

 

完璧というと、「Thorough」(サラと読む)という語を思い浮かべる人もいるだろう。「徹底的な」とか「綿密な」といった意味がある。もちろん、「完璧な」と訳すことも多い。その語源は「Thoro- or Thor-」のようだ。それに「-ugh or -ough」が付く。この語尾は「enough」や「rough」から想像されるように、修飾語にするだけであまり意味はなさそうだ。ちなみにだが、「Thorough」(サラと読む)と「Through」(スルーと読む)、発音はまったく違うが、同じ語源らしい。「Through」には「通じて」という意味のほかに、「隅々まで」といったニュアンスもあり、「完璧な」とよく似ている。

 

まとめると、どちらも「実施した」という訳語ではあるが、「Conduct」には「決められたとおりに行う」というニュアンスがあり、一方「Perform」には「いろいろ工夫して行う」というニュアンスがあるのではないだろうか。


 ひとりごとNo.23. 安易に新学部を作るべきではない(2017-3-14

 

日本では安易に新しい学部を作るように思う。スクラップ&ビルドで新学部を作ってはいるようだが、珍しい名前の学部が全国に新設されている。英訳したら何をする学部なのかよく分からないだろう。私はそれに大変違和感を持っている。学部というのはやたらめったら、スクラップ&ビルドするものではないと思う。それなりの歴史を踏まえ、社会的に大きな流れがあり、どうしても従来の学部では対応できないときに新設すべきと考える。

 

私の卒業したノースキャロライナ大学で見てみよう。Dentistry, Education, Government, Information and Library Science, Business, Law, Media&Journalism, Medicine, Nursing, Pharmacy, Public Health, Social Work、学部(Schools)はこれだけだ。よく見ると、これらは主に大学院(Graduate)であり、専門職大学院のことのようだ。そのほかの従来型の人文科学・社会科学・自然科学といった学問領域は、「Arts&Sciences」という中に学科(Department)として設けられている。Biology, Chemistry, Physics, Mathematics, Computer Sciences, Statistics, Sports Sciences, Psychologyなどの学科である。上に挙げた学部や学科は、私が留学していた30年以上前からほとんど変わっていない。

 

スタンフォード大学でも、従来型の人文科学・社会科学・自然科学は「Humanities&Sciences」という学部の中に含まれている。その他の学部としては、Business, Environmental Sciences, Education, Engineering, Law, Medicineなどがあるが、すべて専門職大学院のようである。人文科学・社会科学・自然科学といった純粋な学問領域は、米国では「Arts&Sciences」あるいは「Humanities&Sciences」に含まれていると言える。そこで学士号を取得した上で、専門職大学院あるいは純粋学問大学院という学部へ進学するようである。日本では理学部・工学部・人文学部と分かれているが、米国ではそれらはすべて「Arts&Science」に含まれる点がユニークである。そして、医学・薬学・公衆衛生学・法学・経営学・教育学などは大学院のみの学部(School)であり、学士号を取得した上で入学する。

 

このような海外の事例を見ても、学部はそんなにスクラップ&ビルドするものではない。富山大学で都市デザイン学部を申請しているようだが、そのような分野が世の中を変える勢いになっているとは思えない。工学部あたりで学科としてまず立ち上げる。あるいは、学部横断的なプログラムを作ればよい。というより、そうすべきだろう。学部というのは十年以内で変わるべきものではない。会社組織でも、総務部、人事部、経理部、研究開発部、営業部などの骨格は長年変化しない。あまり組織をいじくる会社は危ない会社とも言われている。世の中の機運をよく見極め、新学部というのは設立すべきだろう。看護学部や保健医療学部などはその機運に乗っており、学部にすることは納得できる。

 

最近データサイエンス学部が新設されたが、これも訳が分からない。確かにビッグデータの時代にあってクローズアップされている。人材養成の機運も高まっている。しかしながら、学部を作る必要はあるだろうか。もし欧米であれば、「Arts&Sciences」の中にあるComputer Science学科やStatistics学科の中に、Special programして設けることだろう。日本では差し詰め、情報工学科などの学科にプログラムを用意すればよい。一時の流れ星を、いとも容易く学科・学部として新設するのは好ましくない。組織はあまりいじくらないほうがよい。経営・管理がうまく行っていないと、それは組織が良くないからだという理由で頻繁に編成する。それは当然だろう。しかし、組織は変えないほうが良いに決まっている。経営の鉄則なのだ。


 ひとりごとNo.22統計コンサルティング(2017-3-13)

私が米国へ留学していた30年前、統計コンサルティングという授業のあるのにびっくりした。大学にはコンサルティングセンターがあり、外部からの統計相談に応じていた。トレーラーにオフィスがあったGary Koch教授がセンター長だった。日本に帰ってきて、もちろんそのようなものはなかった。でも、自治医大大宮医療センターに勤めていたとき、いろんな医師から統計相談を自然に受けるようになった。授業もなかったから、仕事といえばそれくらいだったので、熱心に応じたように思う。富山大へ移ってからも、統計相談は適宜行ってきた。あまり記録を付けるのは向いていないため、記録を取っている時期もあったが長続きしなかった。資料整理も雑のため、その記録はどこにあるか不明だ。数年前からまた記録を取り始めた。月に45件の統計相談が来る。相談のみは無料で、データ分析など作業が伴えば共著か有料とさせてもらっている。実際のところ、99%は無料の域に収まっている。有料のケースは0件、共著は多少あったように思う。


医学研究で真に統計サポートが必要なのは、今までの経験からすると1%くらいだろうと思う。99%では統計サポートはいらないと思う。医学部あるいは病院の先生方が1年に合計100論文出版するなら、1論文でしか統計専門家によるサポートは必要ない。そういった組織では統計専門家を常駐する意味はないだろう。統計専門家も年に1件しか仕事がないと、やる気がなくなるだろう。1%というのはプロフェッショナルな統計サポートが必要な割合であり、データ解析を行っている論文は80%以上あるだろう。でも、そのほとんどすべては統計専門家に聞かないと出来ないレベルではない。


インパクトファクターの高い(目安として3.0以上)雑誌となると、専門的な統計サポートの必要度は10%くらいまで上昇すると思う。そういった雑誌では、医学査読と同時に統計査読もあるからだ。かなり、厳しい統計学上の指摘があることも多い。欧米の医学部や病院あるいは国内の一流大学では、当然そういった雑誌へ論文投稿するのが大多数だろう。したがって、統計専門家を専任で置くことは効率的と思われる。年に100論文を投稿すれば平均10論文で統計査読が入り、統計専門家のサポートを必要とする。外部へ委託することもできるだろうが、1論文につき50万円かかれば年500万円になるので、助教レベルなら1名雇うことができる。そういった専門家がいると、組織内で定期的に勉強会を開いてくれるだろうし、研究計画段階(投稿前)から相談したりすることもできる。高インパクトファクターへ年100論文も出すような組織では、統計専門家を1名雇うことはコスパ(CP)に優れる。医学部や病院では自らのアウトプット(Productivity)状況をよく見て、組織内に統計専門家を置くべきかどうか判断してもらいたい。


 ひとりごとNo.21への一部訂正(2017-3-8

 

昭恵夫人が森友学園の幼稚園で講演をされたとき、公用車を使用したのは公私混同と書きましたが、昨日(3/7)のニュースによると公用車は使用しなかったようです。誤ったことを書いたことをお詫びします。公用車は使用しなくても、なぜ要人(公務員)を講演会の場へ同行させたかは疑問です。私たちが週末講演へ出かけるとき、部下を公務で連れて行くでしょうか。私用でスーパーへ行くとき、部下を手伝わせてもよいでしょうか。たとえ、私がポケットマネーで部下にお駄賃をあげても許されることではないでしょう。部下が上司の私用にまで付き合わされては迷惑な話です。

 

もう一つ、昨今の報道から、森友学園は勝手に人の名前を出したりと、詐欺まがいの行為を頻発していたようです。昭恵夫人が勝手に幼稚園の名誉校長にされていたとすれば、これは昭恵夫人にとって迷惑な話でしょう。名誉毀損に当たるかもしれません。もしそうであれば、もちろん私の指摘した利益相反はもちろん当たりません。私たちでも私用で企業にアドバイスなどして、対価も求めずボランティアで行うことはあります。これ自体は決して悪いことではないでしょう。しかし、私たちの名前を利用して、「うちの会社は○○という専門家に聞ける立場にある」とか「○○は当社の外部顧問である」などと宣伝していたら、それは利益相反にあたるでしょう。私たちが何も対価を受け取ってなくても利益相反でしょう。企業はそれにより利益を得るかもしれないからです。私たちは公的な仕事を排除されることもあり、不利になることがあるかもしれません。でも、対価が得られるときはWin-Winな関係となり、両者が合意することもあるでしょう。実際、企業の顧問などに就任している人もいます。私たちは利益相反を認識し、兼業届けを出して行います。昭恵夫人も名誉校長となることの影響を考えたでしょうか。相手方は当然有利になると考えたことでしょう。でも、自分はそのことで不利になるとは考えなかったでしょう。自分は世の中のためになっていると感じていたかもしれません。政治家でも一私企業の役員になっている人もいます。利益相反はあっても、それ自体は悪いことではないように私は思います。誰だって、多少なりの利益相反を抱えているのではないでしょうか。利益相反については隠すのではなく、公言することが大切に感じています。皆さんもよく考えてみてください。


 ひとりごとNo.20 Ph.Dは哲学博士でいいのか? (2017-2-23)

欧米で博士号を取ると、大概はPh.D.Doctor of Philosophy)が与えられる。直訳すると、哲学博士になるが、統計学でも文学でもPh.D.なのだから、哲学博士という和訳はちょっと変に感じる。そのまま、Ph.D.と書いている人も多い。なお、英国ではD.Phil.と書くこともある。学問の世界の最高の資格、博士号には間違いない。

 

医師や薬剤師という専門職では、M.D.Doctor of Medicine, or Medical Doctor)やPharm.D.(Doctor of Pharmacy)が付与されることもある。法務博士(Juris Doctorの略でJ.D.)もよく見かける。同じ薬学でもPh.D.を付与される人がいるが、こちらは研究者(科学者)に対して付される。特に米国では、Ph.D.の代わりにSc.D.Doctor of Science、直訳すると科学博)が付与される大学もある。たとえば、ハーバード大学。これも直訳すると科学博士となるが、わけが分からない。

 

古くは学問というと哲学のことであり、哲学という用語が称号に入ったのかもしれない。あるいは、哲学とはよく考えることであり、それはあらゆる学問の基礎だから、哲学という用語が称号に入ったのかもしれない。よく考えて学術研究(オリジナルな研究)ができるということでの最高位の資格、それがPh.D.ということになる。独創的な研究をする能力がある人を博士と呼ぶようだ。科学博士というのは、いわゆるScientist、科学者を指すのだろう。当然、科学者とは独創的研究ができる人なので博士が普通である。

修士はMasterとも言うように、その分野の学問を修得したことを示す称号である。独創的研究までは保証できないが、専門的知識を駆使することはできることを保証してくれる。その下の学位が学士(Bachelor)であるが、独身男性という意味もある。まだちょっと頼りないという意味合いがあるようだ。独身女性は頼りがいあるのだろう。語源はフランス語で若い騎士らしい。学問を少しかじったけれど、まだ修得の域には達していない水準なのかしれない。


 ひとりごと19: 最下位から2番目という評価 (2017-1-19)

 

国立大学が3つのタイプに分けられたのは約1年前だと思う。地域貢献型、特色型、そして世界競争型の3つに分かれた。そのチョイスは各大学に任され、富山大学は地域貢献型を選択した。と同時に、地域貢献型の大学としても目標設定もなされた。1年たって、その目標が達せられたどうかが評価された。その評価に基づき、運営交付金の削減幅が1週間前くらいに発表された。増加した大学もあるので、増減幅といったほうが正しい。

 

わが富山大学は80.5%、つまり19.5%の削減という惨めな結果だった。これは地域貢献型の大学で最下位だった。全体でも最下位から2番目というお寒い結果だった。最下位は鹿屋体育大学で、78.3%だった。大変情けない結果なのだが、地域貢献型に決めたにもかかわらず、それに向かって号令も出ていないし、成員はそれなりの努力もしていなかったのではなかろうかと反省する。私は統計学の大学院講義を地域の企業へ公開し、講義あたり10名以上の出席があった。しかし、こうした事実は大学へは特に報告はしていなかった。そうした指示は特に来ていなかったからだ。

 

トランプ政権と同じで、大学というのは統治があまりうまくないと思う。悪く言えば、みんなばらばらだ。もっと執行部が方向性を示し、われわれ成員はそれに向かって一丸となって努力し、プロジェクト型のように大学一体で行動する体制を築かないといけない。執行部は方向性を打ち出し、それに向けて体制を整える(組織化する)のが仕事であり、われわれのような成員はそれに向かって仕事をする。執行部の方針に反対なら辞めればよい。学長をはじめとする執行部の権力は強くなったけど、もっとその強さを生かす時期が来ているように感じた。


 ひとりごと18: 人は何のために仕事をするのだろうか? (2016-12-26)

 

電通女子社員の自殺から1年が過ぎた。選りに選って、みなが楽しむクリスマスに自殺するなんて。よほどつらかったのだろう。亡くなった女性の母親は次のように言っている。「人は何のために働いているのですか?」にたいして、「自分や家族のために働くものです」と。家族を食べさせるためにお父さんは働くと言うから、そうだろうと自然に思いがちだ。でも、そうじゃない。「会社など組織のために働くものです」と答える人もいるだろう。一昔前なら、みな会社のために働くという猛烈社員だったと思う。さすがに、最近はそのようなことを言う人は減ってきた。でも、もちろん会社のためにも仕事をしているのも事実だろう。会社が伸びることを願っていない人はいないだろう。長時間残業がなくならないのも、会社に尽くしている証拠だと思う。だからと言って、自分や家族のことまで犠牲にすることはないと思う。いわんや、命を落とすなんてあってはいけないことだと思う。

 

たとえば、会社の会議と家族の入学式が重なったとする。このとき、どちらを優先するだろうか? それは家族の入学式だろう。一方、会社で取引先と商談でプレゼンをするのと、家族で子供の学習発表会が重なったとしよう。今度はどちらを優先するだろうか? これは子供には申し訳ないけど、大切な仕事があるので学習発表会は出られないというのが普通だと思う。このように社会の中で生きていると、複数の事柄が重なったときにはバランスを考えて意思決定をしている

 

蛇足になるが、現代人間は意思決定を迫られる回数が多く、そのたびに自然にストレスがたまっているそうである。意思決定をするというのは、そのときいろんなチョイスの良し悪しをすごいスピードで考えている。だから脳が疲れる。余計なことを何も考えない瞑想(マインドネスと言うらしい)をすると、脳の疲れやストレスが取れて、集中力がアップするらしい。その起源は座禅だったとも言われている。

 

一昔前に比べて、家族へのウェイトが高くなっているのを感じる。会社人間だったのは団塊の世代、いま70歳以上ですでに定年を迎えている人たちだろう。団塊の世代は家族を犠牲にしてでも、会社の仕事に勤しんだものだ。週日はまず夕食を家族でいっしょに食べる家など、ほとんどなかっただろう。私の世代は入れ替えの時期であり、人によってどちら寄りかが半々くらいかもしれない。私は完全な家族主義で、プライベート重視派だ。それが許されるのは、会社でなく、大学という特殊な職場に勤めていたからだと思う。それが許されず、会社人間を余儀なくされている人がまだたくさんいることだろう。断ればいいじゃないかと簡単に言うけど、断れないのが現実。周りが助けてあげられないと、あるいは社会が変わらないと、このような悲劇は繰り返されることに違いない。


ひとりごと17: 大学に欠けている組織は何か? (2016-11-28)

 

大学に欠けている組織は何か? それは外部との交渉を司る渉外部、そして人材の有効活用を司る人事部だろう。これらがないため組織が効率的に動かないし、しかも動きが極めて遅い。超大企業並みのスピードと言える。

 

こうした改革には組織の改変を伴う。企業では人事部が改変の構想を練り、部長および人事担当者で異動を予定している者と面談したりする。机上で履歴書だけ見ていても何も動かない。大学には残念なことに人事部がない。組織改革には人事部長が必要だ。医学部長は人事部長たるか?そこまで各教官がどのような仕事をしているか知らない。どんな性格で何に向いているかを日々考えているだろうか。答えはおのずとNoだろう。しかも、私はそんな任にはないと主張するだろう。では、教育担当理事が人事担当か?それは医学部長よりもひどいだろう。人材の補強などを日々考えているような人は大学にはいない。だから組織改革ができない。そしてスピードが遅いのだろう。改革担当理事を設け、ワーキンググループが全教官と面談をするのが第一ではないだろうか。

 

教官の業績評価も然りだ。実施されているとはいえ、業績評価にはなっていない。細かなリストを何日もかけて埋めていくが、上司や同僚が生の声として上がってくるのが一番確かな情報だろう。上司が面談評価をしてもよいと思うが、大学は自治とかいって、上司に評価されるのを嫌がる教官が多い。これでは内部改革は進まない。競争もない。評価も自己評価のレベルにすぎない。だれかを人事部長に据えないと改革は始まらない。

 

これは蛇足だが、教員業績評価は全学で同様に行うと、業績の多い教官ほど記載する業績が多いため、それだけ時間を要してしまう。業績のない教官は数分ですむが、多い教官は1週間以上も費やすことになる。こんな雑務を減らしてあげないと、教育研究へ費やす時間は確保できない。上司や幹部は部下の雑務を減らすよう努力すべきなのに、逆に増やすようへ逆行しているようだ。仕事をする教官ほど雑務が増えるしかけになっていては、本末転倒なのだ。たいした仕事をしていない教官をなくすことこそが今求められている。論文をずっと書いていない、つまり研究をしていない教官は想像以上にいる。研究をしていないのに研究費は等配分でもらっている。論文を書いていない教官は自主的に研究費を返納すべきではないだろうか。もちろん教育はしているだろうから、教育費は胸を張ってもらったらよい。

 

大学には人事部がないから意味のない雑務を増やし、きちんとした業績評価を行えず、硬直的な組織になってしまう。ついでに言うと、大学には渉外担当もいない。人事部と協力して教官を生かし、自分の大学をもっとPRし、外部資金を獲得しなくてはいけない。交渉には時には接待も必要だろう。大学ファーストで実力なる交渉人を大学も確保すべきではないだろうか。そして大学にも人事部と渉外部を設け、企業並みのスマートさとフットワークを持つことが必要かと思う。


ひとりごと16: 健康食品制度で一言  (2016-8-1)

 

昨年の今頃から機能性表示食品の評価ということに多少携わってきたため、その中で感じたことを5つに整理して述べたい。ちょっと長文ですみません。

 

@    健康食品では安全性と品質の安全で十分ではないか。米国・カナダなどでは効果エビデンスも求めているようだが、そして日本の消費者庁も研究レビューだけ求めているが(効果立証までは求めていない)、日本の消費者は健康食品に対して「安心と安全」を求めているように思う。日米でそもそも習慣の違いはたくさんある。たとえば、車ぶつけ駐車。日本ではぶつけて駐車されたら怒るだろうが、米国では日常的によく見られた。米国で効果エビデンスまで求めるからと言って、日本でも同じにする必要性はない。次に、床座り。床に直接おしりを付けるような日本人はいなかった。これについては、いまの若者で床座りする人も一部いるようだ。日本の消費者の大変は「安心と安全」と求めるも、一部(たとえば医療関係者)では効果まで求める人もいることを示唆する習慣事例であろう。

A    研究レビュー(SR)は健康食品の成分ごとに実施されば十分ではないか。いまは商品ごとにSRを実施しているが(そして届出をしているが)、これは無駄な作業に思えてならない。成分差より個人差のほうがよっぽど大きい。医薬品でもClassごとにSRを行っている。ジェネリック医薬品と先発医薬品は違いという人がいるが、もちろん細かいことを言えば違うのは事実だ。しかしながら、成分・規格などの違いより、個人差(個人ごとに効き方が異なること)のほうがよっぽど大きい。木を見て森を見ずというのと同じだと思う。

B    健康食品のアウトカムは適切ではないものが多い。医薬品と臨床評価と同じアウトカムを用いている例を見受けるが、それで勝負つくなら、健康食品ではなく医薬品になりうる。健康食品なので、それ特有のソフト(主観的であいまい要素のある)なアウトカムでないといけない。表示ラベルも「健やかな眠りをサポートする」など軟らかいことが多い。それなら、アウトカム指標も合わせて軟らかいものが望ましい。ポリグラフィー検査による睡眠時間などはあまり適切とは思えない。むしろ、起床時の眠気や疲労回復感のような主観・あいまいなものが適切なのだろう。このようなアウトカムを評価するのは難しいだろうが、たとえば多数の質問から総合するQOL質問票などがよいかもしれない。

C    健康食品と漢方薬は似ているように感じている。一つは未病への適用である点、もう一つは効果立証が難しい点である。さらにいうと、万人に良いというものではなく、特定の人に効果を示すという点も追加できる。漢方薬では、そこで「証」というものを設定し、「証」に合った人にお勧めするようにしている。それは、Best-case解析や予測モデルなどを使って解明されてきた。健康食品も同様であり、どういった人にお勧めなのかをもっと分析していくとよいように思う。これがEBMの次のパラダイムと目されている、Precision medicine(あるいはPersonalized medicine)と呼ばれる個別化医療という時代の到来にも合致する。健康食品でも、あなたにはこれがお勧めというような戦略ができるよう、ぜひ「証」の解明を進めていただきたい。

D    化学物質や成分は危険だという話がよく出てくる。たとえば、サッカリンは癌を誘導するというものだ。確かに、サッカリンを多く摂取すると癌が発生しやすいのは事実だろう。しかしながら、そうしたデータは小動物に適用したものであり、人間に外挿するととてつもない量を摂取させることが多い。そういうことはありえないので、普段の生活ではまったく問題はない。逆に、体に良いという物質もあるが、それも小動物に大用量与えて得られた結果であることが多い。それを人間に相応な量として使用されているかも注意してみておきたい。すなわち、健康食品に含まれる成分の含有量は十分なものかどうかということだ。危険物質では摂取安全量(これくらい摂取しても安全とされる量)がWHOなどで示されているが、健康食品などについても摂取有効量(これくらい摂取しないと効果は出ないとされる量)が示されるとよいだろう。


ひとりごと15:Biometricsは計量生物学でよいか?2016年6月20日

 

Biometricsの日本語訳が問題になっている。現在は計量生物学だが、これでは生物学のひとつに思われる。Psychometricsは計量心理学、Econometricsは計量経済学と訳し、これらはすっきりしている。どちらも心理学、経済学の一分野だからだ。Behaviometricsは行動計量学と訳すが、これも行動を数量化する点がすっきりする。Biometricsは元々生命現象を数量化する学問だったと思われる。そうであれば生命計量学という訳のほうがよいかもしれない。Bio-は生命や生き物を意味し、Bioinformatics 生命情報学と訳されるためだ。しかし、実態は統計学の一分野なので、統計学という用語が入っているほうがすっきりはする。 

Biometricsと同じような語として、Biostatistics(これは米国圏で使用)、Medical Statistics(英国圏で使用)Clinical BiostatisticsISCBの語源)などが使われている。英語でもいろいろな表現があり、どれも中身は似たり寄ったりだ。そこで、日本語訳もいろいろ存在してもよいと思う。どれでも同じものだと気づけるからだ。 

Biometrics訳を生物統計学にするという意見もあるようだが、それだとBiostatisticsの訳と同じになってしまう。Bio-というのは生物を表すともあるが、本質は生き物のことだと思っている。私だけかもしれないが、生物というとなんだか生物学をイメージしてしまう。生き物というと生物学はイメージしない。Biostatisticsで生物学をイメージされては困る。Bioassayは生物検定と訳しているものの、Bioethics生命倫理と訳すように、生命統計学のほうがよいように思う。邪道かもしれないが、外来語はカタカナのままもあり(バイオ医薬品など)、バイオ統計学も一案かもしれない。

日本語訳の案を示す。もっとも広く使われているのをあえて最後に挙げたのは、私が天邪鬼だからかもしれない。BiometricsBiostatisticsの訳をあえて変えないというなら、もっとも浸透している生物統計学がよいのかもしれない。

英語                            日本語訳(案)                                                             

Biometrics              生命計量学

Biostatistics              生命統計学、バイオ統計学、生物統計学

[生物統計学がもっとも浸透しているが、生物が付くとどうも生物学をイメージしてしまう。訳が面倒ならカタカナというのもありかなと思う。]

Clinical Biostatistics   臨床統計学

                                     [ISCBの元になっているし、臨床でよいかなと思う。]

Medical statistics       医用統計学、医療統計学、医学統計学

[中国では医学統計学とも訳すが、ときに医用統計()とも言うようだ。Medicineは医療、Medical Ethicsは医療倫理学と訳すことから医療統計学もあり。医学統計学は古くから使われていて一番浸透はしているが、医学と統計学が並列になって奇妙に感じる。でも、中国でもそのように訳しているから、漢字的には奇妙ではないのかもしれない。医学心理学、医学気象学などもあるようだ。]


ひとりごと14:2016年6月16日

 ニューイングランド(NEJM)誌で臨床試験シリーズが開始した

 

NEJM誌の201662日号に開会宣言がなされた。統計学からも、James Ware教授とDavid Harrington教授が名を連ねている。シリーズの名称は、”The Changing Face of Clinical Trial”である。臨床試験のデザイン・実施・解釈などに関する課題を扱っていくようである。

 

また、この号を見て知ったことがある。RCT第一号は1948年にBMJへ出版されたものとされていたのが、1931年(Am Rev Tuberc 1931;24:401-35.)が最初のようである。疾患は同じ肺結核であるが、BMJのほうは抗生剤のStrepotomycinを用い、こちらは知られていないSanocrysinという物質のようだ。そういえば、亡くなったTom Chalmersが京都で戦前にRCTを実施したような話を聞いたこともある。掘り返すと、通常いわれているBMJ (1948)以前に、いくつかRCTがなされていたかもしれない。


ひとりごと13:医師・薬剤師・看護師の現状2016年5月26日

 医師は毎年8千人を生産している。何年か前から定員を10%位各大学が増やしたので、増えているようだ。そのせいで実習室のキャパ超えなどで迷惑を被っているのが実情だ。医学部は全国に80校あるようなので、一校当たり100人生産している勘定になる。また、平成26年末の厚労省のデータによると医師は31万人で、男性割合は80%に及ぶ。まだ、女医さんは5人に1人しかいない。ただし、30歳未満の医師では男性割合60%まで下がってきている。富山大学でもどんどん医学科に女子学生が入学している。半々に近いのではないだろうか。

薬剤師も毎年8千人を生産している。これはちょっと驚きだ。薬剤師のほうがもっと多いのかなと思っていた。薬剤師コースは6年年限になり、各大学の定員も減ったが、薬学部を持つ大学が増えたので増加しているようだ。平成26年末の厚労省のデータによると薬剤師は29万人で、男性割合は40%しかいない。医師と比較すると、医師も薬剤師も総数はほぼ同じだが、薬剤師は女性のほうがすでに多い現状だ。

看護師は毎年5万人近くを生産しているようだ。もちろん正看護師である。医師・薬剤師よりも6倍ほど多く生産している。平成26年末の厚労省のデータおよび看護協会のデータによると、看護師は約150万人いて、内訳として准看護師は36万人を占めている。だから、正看護師は114万人程度ということになる。医師・薬剤師よりも毎年6倍多く生産しているが、現役正看護師は4倍弱しかいない。ということは、看護師は資格を有するも辞める人(看護協会に属さないことでカウントされない)が非常に多いことを示唆している。

医師・薬剤師は平均38年勤務=30万人÷0.8万人)と算出されるが、看護師は平均23年勤務=114万人÷5万人)という計算になる。看護師は医師・薬剤師より40%近く早く辞めている現状がみえる。ラフな言い方をすると、看護師の半分はせっかく資格を取ったのに今は仕事をしていないとも言える。

ちなみに男性の看護師、いまはまだ10%未満だが、どんどん増えている現状だ。近いうちに30%くらいまでは増やしたいようだ。富山大学でも増えている感はあるが、まだ10%くらいではないだろうか。医師も薬剤師も看護師も、性別に関係ない世の中に向かっていることを感じる。いや、どの職場でも性差はなくなっていることなのだろう。


ひとりごと12:「Tar Heelはノースキャロライナ出身者・住民のことだけど・・・」2016年4月26日

 今日はTar Heel(ターヒールと呼ぶ)について話す。Tar Heelは米国ノースキャロライナ州の出身者あるいは居住者のことを指す。ちなみに、日本語ではノースキャロライナではなく、ノースロライナと書かれることが多いが、発音からして「カ」よりも「キャ」のほうが近い。クイーズイングリッシュでは「カ」に近いかもしれないけど。私自身ノースキャロライナに5年も住んでいたから、ターヒールはよく聞いた言葉だ。とりわけスポーツのときに使っていたように思う。何と言ってもノースキャロライナにおけるスポーツと言えば、バスケットボールとアメフトだ。チーム名のことをターヒールと叫んでいた。
 

その語源は何なのかなあと考えた。「Tar」とはたばこの「やに」のことだ。日本語でもタールと呼ぶ。たばこはニコチンとタールで特徴付けられるのをご存知だろう。これでぴんときた。ノースキャロライナは「たばこ」の州だ。デューク大学の創設者デューク氏はたばこで大もうけした。日本からもたばこ関係のひとがたくさん来ていたし、「セーラム」というたばこ銘柄は、その州の「ウィンストン・セーラム」から来たに違いない。そうだ、Tar Heelがどうしてノースキャロライナを指すかというと、それはたばこの州だからということかと思った。

 

しかし、それじゃHeelって何だろう。Heel(ヒール)とは「かかと」や「靴底」のことだ。どうして、かかとや靴底が州民を表すのか不思議に思った。そういえば、ゴルフのシャフトのクラブヘッドの軸に近いほうのこともヒールと呼ぶ。ちなみに、軸に遠いほうはトToe)と呼ぶ。つま先のことだ。私も曲りなりに米国ではゴルフをしていたが、よくスライスしていた。ヒールに近い部分にボールが当たるとスライス気味で、逆にトのほうに当たるとフック気味になるらしい。それはともかく、ヒールとはクラブヘッドの根元に当たる。つまり、Heelとは根ざしているという意味なのではないか。そうすれば、タバコに根ざしている人たちということで合点出来た。でも、これは正しい本当のルーツかどうかは私には分からない。

 


ひとりごと11:「地球温暖化は本当か?」2015年8月17日

 くらげがお盆前に出たり、サメが海岸近くまで迫ったりしたそうだ。これは地球温暖化のためだろうか? それとも技術の進歩で見つけやすくなったためではないか? 後者だとすれば、地球温暖化説は嘘であり、単なる情報バイアス(その中でも確認バイアス)にすぎないことになる。どうやったら、どちらが正しいかを見極められるだろうか? 学生諸君にはいろいろ考えてもらいたい。


 同じように、熱中症で死亡例が最近増えてきている事実がある。これも地球温暖化が原因だろうか? 地球温暖化で気温が上昇し、それに伴い熱中症が増えたという説明だ。しかし、そもそも熱中症(hyperthermia)という病名は昔からあっただろうか? Wikipediaをみると、1954年にアメリカで作成された「暑さ指数」が起源のようである。熱射病という言葉は幼少時に使われていた記憶がある。熱射病は熱中症の一種であり、もっとも重症のIII度のようだ。熱射病など「病」と付くのは病名だろうが、熱中症のように「症」は症状を言っているだけで、病気ではないのではないか? そうでもなさそうだ。骨粗しょう症、脂質異常症、などは列記とした保険病名である。熱中症も病名と考えたほうがよさそうだが、ICDコードには載っていないようだ。


 本題へ戻して、熱中症は本当に近年増えているのだろうか? その統計は2007年くらいからしかないようだが、本当に増えているようだ。しかし、それが地球温暖化のためかというとそれは分からない。だんだん熱中症が注目を浴びるようになり、注目度に比例して増えているだけかもしれない。そうだとすると、熱中症増加の原因は地球温暖化にあるという仮説もまた嘘ということになる。これまた情報バイアスの一つである。


 こうした例は過去にもあった。レーガン元大統領が自分はアルツハイマー認知症と公言したことから、アルツハイマー病が統計上へ増えた。長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れられたとき、根っこに心房細動があることが分かった。心原性脳梗塞だったのだ。こちらのほうが太い血管が詰まるため重症化することが多い。そのときから、心房細動の病名が統計上増えたとされる。今では100万人近く心房細動の人がいる。こうした有名人効果ではなくても、テレビなどで報道をよくするため増えることも考えられる。報道効果でも言えようか。要するに、簡単に地球温暖化が原因だと言うのではなく、こうした情報バイアスについても考える習慣を付けてもらいたい。


ひとりごと10:(2015年7月1日)

国会議員の年間所得が昨日公表された。歳費と呼ばれる給与所得は、最低額の議員でも1,700万円くらいのようだ。収入だとどれくらいか。歳費は月938,000円、期末手当が年3回で各4,419,250円のようだから、年収は24,513,730円になる。ざっくり言って、国会議員の年収は2,450万円であり、所得控除額が750万円で、給与所得は1,700万円なのだろう。給与所得は言うなれば手取り額と同じである。相当な収入である。私のような準国家公務員という中の上クラスでも、60歳で給与年収は900万円台である。なんと1,500万円以上も違う。

でもこれだけもらっても、いろいろと経費がかかるのだろうと思う人も多いだろう。しかし、これ以外に文書通信交通費が月65万円、立法事務費が月60万円、2名分の秘書給与費が月60万円程度支給されるようだ。実に、月200万円くらいの活動費が入っているのだ。JRなど交通費は議員パスでもちろん無料である。私のような準国家公務員(教員)に与えられる活動費(交付金)は、年に100万円弱である。月にすると約8万円だから、なんと25倍も違う。


きちんと政治活動している議員さんだと公正に使用していると思うが、あまり活動していないと兵庫県の議員さんのように活動費を浮かせている人もいるだろう。どれだけの活動をしているのか、なかなか国民の目からは見えない。国会で質問している議員ではよく調査しているなと感じることもあるが、まったくメディアに出てこない議員ではどれだけの活動をしているのか皆目分からない。ネットなどを通じて、各議員の活動費の支出状況を簡単に確認できるようにしてもらいたいものだ。


 ひとりごと9:(2015年4月23日)
日本の大学は3つに棲み分けされようとしている。1つは世界と伍するリーダー的大学、2つは特定分野に特化した大学(法科から中央大とか、熱帯医学なら長崎大など)、3つは地域に貢献する大学。地域に貢献する大学を目指すなら、地域が望む授業が必須。いまの大学に企業が聞きたくなる授業があるだろうか? もっと企業の需要にマッチしたカリキュラム(授業)が求められる。
そのためにはまず、色々な業界へアンケート調査をすべきではないだろうか?

              
 ひとりごと8:「中間解析結果を公表してもよいか?」(2015年3月3日)
さる2月25日の新聞報道として、エボラ出血に対する新薬「アビガン」の臨床試験の記事がありました。副見出しは「治験中間結果」でした。社会的に問題となっている臨床試験ですが、中間解析結果を公表してもよいものかと実は思いました。しかも、フランスの有名な国家機関であるINSERMが発表したのでびっくりしました。INSERMとは米国で言うとNIHに相当します。そういった有名な機関がこのような発表したのかと思ったのです。

その中間結果とは何かと読み進むと、80人の患者にアビガンを投与し、約半数いた中等症・軽症患者では死亡率が15%と従来から半減していました。一方、重症患者では死亡率は93%だったようです。

ここまで読むと、これは中間結果ではなく、最終結果ではないかと思ったのです。もちろん、もっと追跡すると死亡率は上がるでしょう。しかしながら、この時点でアビガンの効果についての情報は十分と思えます。そこで私としては安心したわけです。最終結果なら公表して当然だからです。

最後になりますが、科学的には中間解析の結果を口外することは禁じられていますが、政治的に必要なら口外することも許されるのか。これについて各自考えてみていただけたらと思います。

ひとりごと7:「下らない?」(2014年3月20日)
「くだらない」あるいは「くだらん」と言われるとショックを受けるが、この言葉は江戸時代にさかのぼる。京都の品物を江戸へ送るさいに、それは「下りもの」と呼ばれていた。江戸時代はまだ天皇は京都にいたため、京都から離れるとき「下る」と言われていたからである。いまは列車でわかるように、東京から離れる列車が「下り」と呼ばれている。東京中心になったのは明治時代からである。京都の品物は素晴らしいとされていたので、京都から出て行く品物は「下るもの」として、素晴らしい品物を意味した。素晴らしくないものは「下らないもの」(「下るもの」の反対)と言われ、取るに足らないときは「くだらない」(「下らない」とは書かないが)と言うようになった。あらゆる言葉には歴史があり、それを知ることは楽しい。

 ひとりごと6:「社会環境への適応は進化そのもの」(2013年1月17日)
哺乳類は基本的に色が見分けられないらしい。但し、緑と青は見分けられるという。進化の過程でそうなったようだ。緑は陸地であり、青は海である。たぶん、海と陸を区別できないと危険なので、緑と青は識別できるように網膜の視細胞が進化してきたと思われる。猿はさらに赤色を見分けられるらしい。猿の主食は木の実(果物)である。赤い色をしてくると食べごろになる。食べごろを見分けられないと死活にかかわる。こうして猿は赤色を区別できるようになったと思われる。

動物は皆、環境にうまく適合するようへと進化してきた。しかし、環境や社会への適応が難しい人間が増えてきているような気がする。適応障害なんて言われることもある。これは一見すると進化に逆行しているようだ。ここ数十年しか見ていないためだと信じたいが、環境へ適応できないといつかは人類も死滅する運命にあるかもしれない。また、社会へ適応できないといつかは生活保護となるかもしれない。そうした人間が増えていく気がして心配でならない。

 ひとりごと5 :  最近の思い(2011年9月1日)
 少し前だと55歳が定年だったので、その意味で私はすでに定年に達した。企業は今でも55歳で役職定年、希望すれば60歳まで働けるようである。私の大学は65歳が定年なので、あと10年弱あるが、将来のめどがついたら若い方々へ譲りたいと言ってきた。その気持ちは変わりない・・・

 子ども手当は家長の収入が860万円以上は廃止になるようだが、夫婦で働いていて両方とも収入700万円の家庭には子ども手当がつく。どうしてなのだろうか?世帯収入でいくらが上限としてはまずい理由があるんだろうか?何か不思議である。

 家族が亡くなって相続のとき、亡くなった家族の銀行口座を解約し相続しようとすると、亡くなった人の生誕からさかのぼり戸籍変更のたび、証明書を各自治体から取り寄せる必要がある。戸籍を何度も変更している家族だと大変だし、亡くなった家族がどう戸籍を変更してきたかが分からない。そこで、一つ一つたどるなり、問い合わせないと作業ができないこともある。こんな面倒なことをする必要があるのか?確かに家族内で、もめそうなときは、そのような手続きを踏む必要はあるかもしれないが、通常の家族は相続人がだれかは了解済みだろう。

 さてさて、最近の思いをつらつら書いたが、世の中には、無駄と思えること、変だと思えることがたくさんある。多すぎるとだんだん麻痺するのが怖い。職場でもそんな話題をする余裕がない。これではだめで、もっと余裕(遊び)をもち仕事をしないといけないなと感じている。

 ひとりごと4 :  おくすり(2011年2月8日
  2010年は11件もの新薬審査を行いました。2009年は6件だったので倍増です。現プロジェクトをご覧いただければおわかりのように、山のようにプロジェクトをかかえております。プロジェクトで終わるものはあまりなく、ありがたいことに・・・増える一方です。

  今年2011年の折笠教室は、4月から薬剤疫学を勉強する大学院生(女性)が1名入学します。また、学術振興会の中国の先生と日中交流が始まります。

  私事では、お薬を3種類常用するようになりました。何の薬かというと、略語でHTN、HLD、HUDという病気です。おくすりは、審査をしたり、飲んだり、私にとって身近な存在です。

 


ひとりごと3 : 断れない性分(2010年7月10日)
  今年に入ってから新薬審査を引き受ける回数が増えてきたと感じたので、数を数えてみました。以前は年間に4〜5件程度だったのが、今年はすでに6件になります。倍増なので「ポアッソン分布」の正規近似をすると有意な増加とわかります。

  お断りする理由がない限りは引き受ける性分なので、どうしても止まりようがありません。私は長男ですが、何やら長男は仕事を断るのが苦手なようです。これもご奉仕の一つと思って精進します・・・(笑)



ひとりごと2 : 今どきの学生(2010年6月13日

  今どきの学生、授業態度はひどいとか授業崩壊とか、よく耳にする。はたして、本当だろうか。本当に悪いのは学生だろうか。私たち教師にも責任が大きいのではと思う。教師が学生を叱り、また、時には褒めることを真剣にしていないのでは?
  教師が真剣になれば、学生も人の子。ちゃんと分かって、真剣に授業に取り組むはず。決して、あきらめずですわ。



ひとりごと1:受勲と色(2010年5月20日
  毎年春と秋には「受勲」が発表されます。今春は近しい方で2名も受章されたので、少し調べてみました(受章であり、受賞ではない!)。勲章と褒章があるらしいです。勲章は桐花大綬章、旭日章、瑞宝章などがあるようです。

  近しい先生の1人は瑞宝章を受章されました。もう 一人の近しい人は次に述べる紫綬褒章を受章されました。

  褒章は5種類あり、色分けされています。「紫綬褒章」は紫色の綬のついた記章で学術・芸術上の功績に対して与えられるものです。紫色は高貴な色と言われますね。昔から皇帝、王位など高い身分の方が、好んで紫の法衣や衣装をまとっていたようです。

  勲章をいただくには推薦されないといけません。公的機関に長く勤めていた方などは自動的に推薦されるようです。年齢をみると80歳前後の方がほとんどでしたが、推薦される年齢があるのかもしれません。邪心はいけませんが、長生きすれば私も・・という気になりました(笑)

  写真は先日、新湊へ行ったときに見た「大漁旗」です。赤・青・紫・黄色など、色彩豊かな大漁旗が風にふかれてユラユラ揺れているのは、とても心が癒されました。色を見分けることができる人間に産まれてきて良かった・・と感じる一日でした。


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